movie_med_girl’s blog

映画や小説の感想を書いていきます。

映画の感想 「エゴイスト」

鈴木亮平はすごい俳優だなぁと思っていた。様々な作品で全く異なる役柄を演じ、その度に話題になる。東京外国語大学を卒業しており、頭脳も明晰。メディアで彼が話す姿からは、能力が高いだけでなく人格者であるのだろうと思わされる。特別大ファンというわけではなかったが、好感を抱いていた彼がゲイを演じるという情報。そして宮沢氷魚との二人の美しい予告動画を見て、この作品は映画館に観に行きたいと思った。鈴木亮平という俳優を観ること、二人の美しい恋愛模様を観ること、それを目的に軽率に映画館へ足を運ぶことに決めた。

 

映画を観て、この作品が自分が想像していたよりも何倍も深い愛を描いている作品であることを知った。想像していた何倍もの感動を与えてもらい、生きる希望をもらい、映画を観終わったその足で原作を買いに書店へ向かった。物語の序盤で、鈴木亮平演じる浩輔は、宮沢氷魚演じる龍太に恋をする。そしてそれは愛に変わる。しかしこの作品で描かれるのは、「同性愛者が恋人に対して描く愛」と言われて想像する愛だけではない。そもそも、人それぞれそう言われて想像する愛は違うのかもしれない。他人が想像している愛と自分が想像している愛が同じかどうかを確かめようと試みるのは、誰かと恋愛としての付き合いを始めようとする時などの限られた時であると思うし、「特定の誰か」ではなく、「この社会に生きている大多数の接点もない誰か」の想像と同じかどうかは全くわからない。

伝わりにくくなってしまったかもしれないが、要するに「愛とは何か」という問いはとてつもなく難しい。

 

私は、子供の頃は好きな異性がいたし、今もこの人の見た目が好きだ!キュンとする!とか思うのは異性だ。けれど、大人になってから恋人はできないし、一般的な恋人同士のような関係が築けるのか、自信が持てない。かといって同性が好きなのかと言われればそれも違う気がするし、ただ本当に好きな異性に出会っていないからわからないだけだ、と言われれば否定もできない。そんな自分のこの先の人生はどうなるのだろう、世の中の多くの人のように、誰か特定の一人と愛を誓い合うことはできないのだろうか、などと不安になる時もある。そして何より、「愛とは何なのだろう」「この年でそれがわからないなんて…」と落ち込んだりもする。

 

そんな私はこの作品を見て、「愛とは何か」に明確に答えられなくても、それでもいいのかもしれない、と思えた。今まではその問いに答えられないことや、自分が愛を与えたり、もらったりできるているのかどうかわからないことへの不安に苦しさを感じることもあったが、「それでもいいのかもしれない」「それでも生きてみよう」と思えた。

 

多くの人に観てほしいと思う作品であるが、中でも誰に薦めるかと言われたら、私のように「愛」について疑問を持ったことのある人、「愛」がよくわからなくて、「愛」について考えることで不安を感じたことのある人にはぜひ観てほしいと強く思う。

 

 

 

 

ここからはネタバレも含めて感想を書いていく。

この作品の中で、浩輔が龍太に恋をして、そして浩輔本人もそれを自覚していたのは間違いないと思う。そしてそれが恋人としての愛に変わるのも自然の流れだろう。それが男性同士であることは特徴の一つではあるが、異性間の愛と大きな違いはないように感じた。そしてこの作品の本質はそこにはないと思う。

浩輔は龍太に出会った当初、これまで恋愛対象として好きだと思ってきた相手と同じように、龍太のことが好きだと感じた。しかし、母を支えるために懸命な龍太の姿を見て、浩輔への愛により自身の仕事が上手くできなくなった葛藤から別れを告げられる経験を経て、これまでと明確に違う気持ちを抱いた。そして、自身もそれが望ましい行為なのか、誰のための行為なのか、わからないまま、お金を出して龍太を買い、二人で龍太の母を支えていこうと提案した。

その後三人で過ごす日々は、浩輔にとって幸せな日々だったのだと思う。わからないものをわからないままに、目先の幸せだけを考えていたのかもしれない。日々が幸せであり、忙しくもあったからこそ、わからないものを残していることすら自覚せずに済んでいたのかもしれない。そんな最中に龍太が死んでしまった。何もわからないままで幸せな時間を続けるために不可欠な存在、浩輔と龍太の母を繋ぐ存在でもあった龍太がいなくなった。龍太の葬式で浩輔が泣き崩れたのは龍太がいなくなった辛さもあるが、今まで龍太がいたからこそ得られていた母との幸せが突然なくなってしまうこと、そして幸せすぎて忘れていた「わからないままにしていた、少し歪な自覚がある感情」と突然対峙させられた不安とショックが大きいのではないかと思う。

そしてその後、「この関係が歪である」「誰のためにやっているのか」「自分のエゴでこんなことをしていいのか」という感情は強くなったが、浩輔と龍太の母二人で交流するだけでなく、お金を渡す関係も続いていく。きっとこの時も、母と二人で食事をして話をしている時間が幸せで、他の時間も忙しく過ごしていたから、考えることを放棄していられた。しかし龍太が突然死んだ時と同様に、またも突然母がいなくなることで幸せな時間に終わりが来る。

この時の浩輔はどれだけ辛かっただろう、どれだけ絶望しただろうと思う。自分が問題から目を背け続けて、それでもあの手この手を使って何とか維持してきた幸せを、同じように2回も失ったのだから。もしもここで浩輔と母が二度と会えなければ、なんて救いのない作品だっただろうと思う。

けれど、浩輔は母と病室で再会することができる。そして、「愛が何かわからない」という浩輔の気持ちを、「それでいいのだ」と肯定し、受け入れてもらう。私はこの時に浩輔と自分を重ね、自分を肯定してもらい、自分を救ってもらった気がした。愛がわからなくても、自分のエゴなのかもしれないと思っても、それで良いと、それでも一緒にいてほしいと思ってくれる人物がこの世にいるのだと思うと、本当に救われた。

そして振り返れば、浩輔を愛していたのは龍太の母だけではない。龍太も、浩輔の父も・母も、そして友人たちも浩輔を愛している。そして浩輔も同じように彼らを愛している。愛の相手が同性だろうと、異性だろうと、家族だろうと赤の他人だろうと、関係なかった。愛の対象も、愛の形も何だってよかったのだ。

 

「愛」と言われ、異性間の恋愛におけるいわゆる「愛」だけを想像し、それが他の人と違うこと、それがうまくいかない、よくわからないということに、私は強い不安を感じていた。でもそうじゃなくて、愛にはたくさんの形がある。わからないままでもいい。気づかないうちにたくさんの愛に囲まれているのかもしれない。そう思うと生きることに前向きな気持ちが湧いてきた。

 

もちろんこの先も辛いことはあるだろう。生きることをもうやめてもいいかもしれない、と思うこともあるだろう。それでも、映画館で本作を観終わった時、龍太の母に救ってもらった時の感情を思い出せば、生きようかな、と思える気がする。

 

この作品に出会えて本当に良かった。